「ありえないからっ!!!!」と叫びたくなることはどこに住んでいて、どんな仕事をしていてもあるだろう。
しかし、アメリカ、特にこのベイエリアの多様性はニューヨークやLAに次いですさまじい。
社会格差、性差、人種・民族の違い等に由来する生活習慣・環境・価値観の違いにより、
育ってきた環境が違うから、すれ違いはしょうがない
などと悠長なことを言っている場合ではない事件も起こる。
白人警官が無実の黒人青年男性の命を「すれ違い」から奪う事件が多発する。
「ありえないからっ!!!!」と叫ぶのはかわいいもので、
それは大規模なデモ、社会問題にすら発展するのだ。
そこまで大規模な問題ではない、日常生活の「すれ違いはしょうがない、、、のかもしれないけどやっぱりありえないんだけどっ!ムキー!!!」について、
一体私達はどう反応したらよいのだろうか?
「ありえないんだけど、マジで」と感じる感情は「自分はそれを享受する権利がある(entitlement)と信じる気持ちからくるものだ」と言われる。
イラつきやすい人は、「こうであるべきだ(Should)」が強すぎるのだと。
私は自分とは真逆のタイプの男を夫として選んだ。
規律を重んじ、学問を尊び、読書に喜びを見出す私(内向き)。
今を楽しみ、学ではなく実践を重んじ、毎日来る日も来る日もソーシャライズ(友人と酒を酌み交わす)で一日を終える夫(外向き)。
真逆なので、家で起きる戦争はすさまじい。
もうほんっとに信じられない! と私は泣き叫ぶ。
もう無理だ! と男は喧嘩の最中家を飛び出す。
でも一日、二日で強烈に仲直りし愛を確かめ合う。
こんなことを繰り返す生活の中、本当にこの男は……と思うことは数知れず。
そんな私の男だが、最も尊敬しているところは
違いを受け入れられるところ
偏見がないところ
人にラベルを貼らないところ
人を見た目や人種、民族、国籍、ジェンダー等で決して判断することはないところ
人当りがとても良いところ
理詰めではないところ
「その人は自分と違うということを受け入れればいいんだよ」
なぜだー? WHY? ウァーイ? オーテルミーウァァァァイ?! と結構な頻度で怒りマックスな私にいつも彼はそう言う。
そして彼は私が彼と真逆であること、私という人間をどうやら丸ごと受け入れている。
彼は決して、「なぜだ? なぜそんなことをするんだ?」と責めたりしない。
見た目もくまのプーっぽいが、アティチュードも「だいじょぉーぶだぉぉぉー、心配しすぎだぉぉぉよよ」的お気楽なので、
時にとても助けられる。
学問を究めることは理詰めになること。
なぜ? 根拠は? 理由は? その議論をサポートするパラグラフを入れなければダメよ。
批判的視点を常に持て、この著者の主張を破れる道はどこに? データはそれを指しているか?
どのデータがあなたの議論をサポートするの? あなたの思っていることを主張することと根拠に基づき議論することは違う。
大学院では担当教授に「クリティカルシンキングを持て」「常に批判的であれ」と耳がタコになるまで言われ、教育された。
前置きが長くなったが
批判的思考でデータを読み解くという能力を手に入れた私は理詰めになっていないか、
自分の意見を押し付けていないか、頭でっかちになっていないか
というのが最近の私の命題である。
一体、私達は「ありえねーからね、マジで」という事態にどう対処すべきか、という命題の答えは
コミュニケーション、の一言に尽きる。
「ましてや男と女だし、育ってきた環境がちげーし、元々他人だから、すれ違いはしょうがない上に好き嫌いもしょーがねー」(*2)のであるから、
どんな相手と接する時も
相手がセロリを好きなことを受け入れられなくても、理解しようとする姿勢がキーポイントだ。
そしてこれがなっかなかハードルが高い。
なんせ要は「WHY?!」「なぜだ!!!!」とイラつくのをやめればよいのだが、
学問の道に身を焦がしたいと願う私の最強の武器は、社会にはびこる「なぜ?」を究明する能力......
Frozen(「アナ雪」)のLet It Goという曲が大ヒットしたのも
多くの人が
「手放すこと」
「まぁいいじゃないか」
「ありのままで」
「Let it go」
することに四苦八苦しているから、ここまで共感されたのではないだろうか?
アジア人は全員中国人だと思っている欧米系アメリカ人から突然路上で、得意げに中国語らしき言語で「ニャーヒャーニャーヒャーッ!(?!?)中国旧暦新年おめでとう!(Happy Chinese New year!)」と言われて「いや、私日本人だし! アジア人が全員中国人だと思うなよ!」と思っても、
黒人青年グループがBART(現地の電車)車内でギャーギャー騒いでうるさくても、
レストランで白人の金持そうなカップルが自分たちより良いサービスを受けていると感じても、
インド人の同僚の英語が巻き舌すぎて何言っているのかわからなくても、
中国からの留学生のクラスメートが一人きりで、むっつり黙ったままで何を考えているのかわからなくて怖くても、
クラスや会議のディスカッションで、自分が発言したあとに、「これはこーでこーだと思う」とあたかも今自分が初めて言いました、みたいな顔して他のアメリカ人に自分の意見を堂々とパクられ、「いやいや、それ、今私が言ったことと全く同じじゃね?」と思っても、
ネイルサロンでベトナム人のネイリストにスカルプやジェルをバリバリ無理矢理力づくで剥がされても、
チャイニーズレストランで45分待たされて出てきた料理が冷えていたので、「45分も待たされてこれですか?」と文句を言って「チッ」と舌打ちされて「じゃ、もうこれは食べないのね?」、と言われ、いやいや、あったかいのを今すぐ持ってこいや、と思っても
もう30歳なのに、見た感じがアメリカ人のどずこい体系と比べると若いがゆえに、酒のある場では身分証明書提示を求められ、1984年と表示されたその証明書を見て「あぁ、三十なのね」と微妙な顔をしたセキュリティにそれを返却されても、
大事な郵便物を郵便局に紛失されても、
黒人だらけのクラブにいって、まさか日本人である私が彼の妻であるとは思わず、目の前で堂々と私の夫を誘惑しようとする黒人女がいようとも、
「え?あなたたち、カップルなの?」という驚愕の目で人から見られようとも(異民族のパートナーを持つ人には経験あるはず)、
黒人の夫と喧嘩しているところに、白人警察官がやって来て「あなた、大丈夫ですか?(この男に恐喝されているんですか?この男はレイプ犯ですか?とでも思っているような警戒した態度で)」と言われ、「私の男ですよ!黒人が全員犯罪者なわけないでしょ?何なの、その偏見はっ!?」とキレそうになっても(黒人の夫・彼を持つ人には経験ある、、、かもしれない)、
「育ってきた環境が違うから、、、すれ違いはしょうがない~」と
歌うことができれば、口ずさむことさえできれば、
アメリカでもどこでも生きていけるし、どんな人ともやっていける。
「ひとにやさしくされたとき、自分の小ささを知りました。
あなた疑うこころ恥じて、信じましょう、こころから」(*2)
「まっ、色んな人がいるからね、仕方ないよ」と
ありえないからっ! とキレる前に思えたら一人前なのかもしれない。
そして一人前の人間の数が増えれば、社会はきっとより良い場所になる。
私の周りには怒りの沸点が低く穏やかな人が多い。
彼らは私の感情の激しさ、すぐ泣いて笑って怒る様をみて
「あなたって本当におもしろい人ね、うふふっ」と言ってくれるが、
私は怒らない彼らを、平穏なこころで生きる彼らを心の底から尊敬している。
が、ついつい「いやいやいや、そこは怒るとこでしょーがよー!!!」と
彼らに説教をしてしまうのだが。
一人前への道のりは長い。
でもアメリカのこの人種のるつぼの中で、
少しでも色んな違いを受け入れられるようになったら
でっかい人間になれる気がする。
いつか。
合言葉は LET IT GO
*1 新世紀エヴァンゲリオンより
*2山崎まさよし「セロリ」、要約 by私
*3モンゴル800「あなたに」