ロサンゼルスには魅力的な場所が沢山ありますよね。その中でも皆が必ず挙げる場所の1つといえばハリウッドでしょう。ハリウッドは1910年代に元々は東海岸にあった多くの映画制作会社が拠点を移し、その後も映画が作られ続けているという場所です。そして2016年の現在でも、数えきれないほどの人々がこの場に夢のために集まり続けています。
僕は今回、その中の一人の日本人OBie Shoさん(本名:尾畑 祥さん)にインタビューしてきました。(以下:オビー)彼は日本で生まれて日本で育ち、20歳の時に渡米、そして現在一流ハリウッド俳優を目指す駆け出しの俳優さんです。
今回は、なぜオビーがアメリカのハリウッドという映画の聖地で俳優を目指す事になったのか、また目指す中での体験を皆さんにシェアしたいと思います。
オビーと英語
東京で生まれたオビーは、サンフランシスコに住んだ経験のある母親の勧めで4歳の頃からインターナショナルスクールに通うことになった。小学校4年生になるまでの間は学校のルールで学校内で英語以外を話すことは禁じられたそうだ。
そして卒業する頃、6年間インターナショナルスクールに通っていた彼に問題が起きた。それは日本語が圧倒的に普通の日本人小学生よりも劣っているということだった。そんなオビーに転機が訪れる。両親の仕事の都合で鹿児島県の屋久島という島に引っ越すことがきまったのだ。
屋久島は世界遺産縄文杉でも有名な自然豊かな島だ。島の全校生徒が少ない学校に通うことになった彼は、中学高校と部活に熱中する生活を送った。そして高校3年生の時、英語で自分の可能性を確かめるために応募した「全国英語スピーチコンテスト」で鹿児島県地方予選最優秀賞と全国2位の結果を残した。この実績から周りは彼が得意な英語で外国語系の大学に進学すると信じていた そうだ。
しかし、彼の中で英語は出来て当たり前なものであって、日本の大学で文法中心の英語を勉強するという気はなかった。そこで進路選択の際、スピーチのコーチングをしてもらっていた鹿児島市のiBS外語学院に進学することを決意した。
俳優を目指したきっかけ
オビーには目標や憧れの俳優がいない。彼が俳優を目指すきっかけは彼自身の経験からだ。その始まりは全国高校英語スピーチコンテストの決勝だったとオビーは語る。
極限の緊張状態だった彼は自分の出番の前に会場の様子を見に行った。するとそこには、決勝進出者のスピーチ中でさえも眠そうでつまらなそうにしている他校の生徒が沢山い た。そこで、彼は「この眠たそうな人たちを起こしてやるようなスピーチをしてやろう!」そう思い、壇上に立った。
スピーチ中は暗記してきた文章を思い出すのではなく、無我夢中に口から勝手に英語が出てきた。そんな不思議な体験をしたらしい。終わった時は眠そうにしていた人々も前のめりになって拍手をしていたのを鮮明に覚え ていると彼は言った。この時彼は初めて、人前で物事を表現するという楽しさを実感したそうだ。
その後、英語スピーチに自信を持っていた彼は外語学院卒業前のスピーチライブでもある挑戦をした。それは10分ほどの持ち時間の中で、英語の一人芝居をすることだった。その芝居は子供時代に育った屋久島のことを表現するテーマで「屋久島からの視点で人間を語る」という複雑な内容だったが、彼はそれをやり遂げた。
この舞台の後、以前より彼の中でモヤモヤしていた「何かを表現する仕事をしたい」という考えが、この時ハッキリと俳優という夢へと変わった。
眠らぬ街ラスベガス
眠らぬ街ラスベガス。オビーはそんなエンターテイメント溢れる都市に留学した。オビーは経験を重ねるためにメジャーを決めず卒業に必要なクラスだけを取りながら、友人のつてで俳優業に携わる人々に会ったりしていた。
この時期に開かれたラスベガス・フィルム業界の親睦会では名刺代わりにカレッジノートの紙をちぎって名前、電話番号、メアドを書いて手渡ししながら無給の映画のキャスティングの仕事を探した。(※留学生が有給で働くのは例外を除いて学生ビザの規定上禁止されている。)
ある時カレッジの舞台オーディションが開催され、初めて彼はそこでオーディションに参加した。英語ネィティブと肩を並べて挑んだ第一次選考の結果は最高だった。 複数のディレクターから候補に選ばれ最終選考へと進んだ。
最終選考は英語の台本を20分間読んで即台本を見ながら実演するという形だった。しかし、その台本には 英語を第二外国語とする留学生には発音すら難しい単語が並んでいて、慣れていなかった彼の結果は惨敗だった。オビーにとって俳優への道での初めての大きな挫折だった。
その後も試行錯誤の日々が続いたが、ある日、若き世界的イリュージョニストの原 大樹 氏と偶然図書館で出会った。実は、オビーは日本で彼の公演のスタッフをしたことがあり、奇跡的再会でもあった。再会した当時はオビーはまだアクターネーム"OBie Sho"を名乗る前だったが、俳優になりたいという思いを原氏に伝えると、 原氏はマジックのアシスタントとして彼にオファーを出した。
原氏そしてイメージビデオの撮影時にプロデュースに関わったアヤラ氏のおかげで、俳優の勉強を頑張るのではなく”一刻も早く俳優として実践を積んで一流になる”という考え方に変わった。そうやって人と人との繋がりの中で積んだ経験の中で、オビーは着実に俳優への道を進んでいった。
映画の都ハリウッド
ラスベガスのコミカレを卒業したオビーはロサンゼルスの俳優養成所に入った。実践的なレッスンを通して俳優としての能力に更に磨きをかけるためである。そして学校でレッスンを受ける傍ら、自分で積極的に仕事を探して、学校と仕事の両立を目指した。
ロサンゼルスで活動するオビーには壁も沢山あった。たとえば俳優の仕事を手に入れるためには、オーディションを受けなければならない。しかしここで彼がアジア人だというハンデが出てきてしまう。例えば時々公募される役には何系の人のみと条件があることが多いのだ。
白人のイメージの役には白人希望との要項があることが多いらしい。しかし彼は白人役のみが募集されているオーデションに応募して予選を通過したり、逆にアジア系と指定の無い舞台の選考では主役を勝ち取り舞台に立った。
そして今年からは養成所を終えて、OPT制度(Optional Practice Training制度:アメリカの大学・大学院を卒業後、一定の期間合法的にアメリカで働ける制度)を使って俳優として働く。俳優として働くためには、O-1Visa(通称俳優ビザ)が必要となる。今回はそのO-1Visa取得に必要なことも教えてもらった。取得に際して必要な物は沢山あるそうなのだが、その中でも特に2つあるらしい。
このサイトに公式に掲載される出演クレジットの数は推薦状の次に重要らしい。だから仕事の数が膨大にあるロサンゼルス・ハリウッドは彼にとって最高の場所だそうだ。
こちら(OBie Sho - IMDb)からプロフィールが確認できます!
SAGとは何か聞いてみたら、The Screen Actors Guild 通称SAG。簡単に言うと、映画俳優組織らしい。
このユニオンによって認められた作品はSAG作品として公開され、SAG所属の俳優を使う権利が与えられる。しかし、non-SAG作品はユニオン未加入の俳優しか使うことが出来ない。なので今は、SAG未加入の俳優として仕事をして実績を重ね、まずはSAG加入に相応しい評価を得ることが目標だそうだ。(報酬とかも桁が違うらしいヨ…)
※SAG加入”相応”で加入しないのは、正式に加入すると仕事の範囲が限られてくるらしく、経験を重ねるための時期には加入相応いわゆるSAG-Eligibleの状態が良いらしい。
どのような俳優になりたいか。
前述したとおりオビーには理想の俳優はいない。しかし、彼の俳優としての理想像は自分自身でしっかりと持っていると彼は語った。最後に彼に俳優としての目標を聞いた。
「日本人やアジア系という理由で選考されるのではなく、自分自身の演技の魅力で選ばれるようになって、オスカー像を手に取ること!」
どうしてもアメリカの映画や舞台の配役ではアジア系は「人種平等の概念」からあらかじめ用意されたアジア枠に配役されることが少なくないのが現実らしいです。彼の理想はそのような選ばれ方でなく彼自身演技の魅力で選ばれる、そんな俳優になって結果を残すことだそうです。(カッコイイo(´∀`)o
皆さん!アメリカという異国の地で一流ハリウッド俳優を目指すOBie Shoのこれからの活躍に注目ですよ(^o^)