オクラホマ・パンハンドルという、謎の場所があります。それは下の地図で赤く囲った部分。オクラホマ州の北西に細長く突き出した地域です。フライパンの取っ手みたいな形に見えるからパンハンドル(panhandle)と呼ばれています。
南北に55km、東西に267kmの細長いパンハンドルは、南からテキサス州、西からニューメキシコ州、北西からコロラド州、北東からカンザス州という4州に包囲されている、全米でも珍しい地域です。
小さい頃から地図を見るのが好きだったぼくは、何でこんな形してるのか、ずっと気になっていました。 だから、どうしてなのか調べてみました。そして行ってきました。
こんな形が出来上がった背景は、19世紀のアメリカで起こっていた奴隷制度を巡る争いにあります。この頃は西部開拓の時代で、アメリカ西部に新しい州が誕生していました。
新しい州が奴隷州(奴隷支持)になるか自由州(奴隷反対)になるかは、当時の重要事項でした。この時代背景が、1861年から65年にかけてアメリカを二分して争われた南北戦争につながっていきます。
1850年協定以前のアメリカ領土
奴隷州であるテキサス州が合衆国に加盟したのは1845年。テキサスが当初主張した領土には、現在のオクラホマ・パンハンドルも含まれていました。ところが、当時のアメリカには1820年に成立したミズーリ協定という取り決めがありました。これは、北緯36度30分より北では奴隷制を禁止するというものでした。
この結果、テキサスは1850年協定でこのラインより北の領有を断念。さらに1854年のカンザス・ネブラスカ法で北緯37度線がカンザス準州(1861年に自由州として合衆国加盟)の境界として設定されます。こうして、この間に挟まれた地域は、どこにも属さない “No Man’s Land” として取り残されることになりました。
1850年協定によるアメリカ領土
No Man’s Land。誰のものでもない土地。いかなる州や準州(州に昇格前の状態)の政府にも属さないこの荒野に住み着いた人々は広大な牧場を開き、牛を放っていきました。
彼らによって作られた自治政府はシマロン準州(Cimarron Territory)と名付けられました。1886年には、このシマロン準州をカンザス州に組み入れる法案が提出され、上院、下院を通過しましたが、当時のグロバー・クリーブランド大統領はこれにサインせず、法案は流れてしまいます。その後、1890年にオクラホマ準州が新たに誕生すると、パンハンドルはそこに組み込まれました。オクラホマ準州は1907年に州に昇格し、現在に至ります。
というのが、オクラホマ・パンハンドルがこんな形になった理由です。じゃあ、ここはどんなところなんでしょうか? はっきり言って何もありません。 “No Man’s Land” は「誰もいない土地」と訳してもいいかもしれません。
パンハンドルの面積14,727km2は岩手県より少し小さいくらいですが、人口は岩手県の約45分の1の28,750人。人口密度はわずか2人/km2です。しかも、パンハンドルの人口は減り続けていて、現在の人口は、1910年のオクラホマ州誕生直後の半分以下になっています。オクラホマ州全体では、同時期に人口は約1.5倍に増えているので、ここは発展に取り残された超過疎地と言えます。
これが実際のパンハンドルの風景。こんな荒野がひたすら広がっています。1時間以上車を走らせて1台の対向車にも出会わないような区間もありました。出会うのはただただ牛ばかり。
このサイト(https://beef2live.com/story-cattle-inventory-vs-human-population-state-0-114255)によると、オクラホマ州全体でも、人よりも牛の数の方が多いようです。まして人が圧倒的に少ないパンハンドルに限っては、その比率はきっととんでもないものになると思います。
こんな辺鄙なオクラホマ・パンハンドルには当然公共交通機関なんてなく、ここへ到達するには、車を運転して行くしかありません。ぼくはコロラド州の大都市デンバーまで飛び、そこでレンタカーを借りて、この地を目指しました。パンハンドル西部の町ボイス・シティ(Boise City)までは、順調に行けば5時間くらい。
ド田舎とはいえ、ほぼ平坦な道のりで、しっかりと舗装された道路を通っていくので、道中の難易度は低いです。普通のファミリーカーでまったく問題ありません。ただし、ガソリンスタンドはまばらにしかないので、見つけたら小まめに給油することはお勧めします。
ということで、観光とは無縁の秘境オクラホマ・パンハンドルの「何も無さ具合」をこれからお届けしていこうと思います。需要が無いのはわかっています。